仏教に写経があるように、キリストの教会にも聖書の言葉を書き写すことが神の言葉に生きるために大切なこととされてきた。第二次大戦中に洗礼を受けて信仰の戦いをしなければならなかった私が最も激しくこころを燃やしながら、キリストの愛の確かさを、自分のからだとこころに刻む思いで何度も書写したみ言葉はこれであった。聖書はそのようにひとを生かすのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、138頁
2020年5月7日(木)
聖書が語ろうとしていることの焦点は、神さまが私たちを愛しておられるということ、そしてその愛が無限の愛であるということ、です。聖書を部分的に読むと、この焦点とはずれた主張も成り立ってしまうのですが、この焦点から離れた主張であれば、それはどんなにいわゆる聖書的であったとしても、本当の意味で聖書的ではないと言わなければなりません。聖書のどこであっても、その聖書のことばから神さまの無限の愛を読み取っていくということが大切なのだと思います。
説教準備として、説教のための聖書箇所をノートに書き写す、それはいくつかの聖書の翻訳に照らしていく、ゆっくりと声に出して読む、何度もの読む、黙想しながら読む、ということに取り組んでいます。ある黙想会で指導していただいたことなのですが、自分にとってはとても大切なこととなっています。神さまの愛がにじみ出てくるまで黙想していくこと。誰かに語るための聖書のことばなのではなく、まず自分に語られている聖書のことばとしてしっかりと受け止めていくことなのです。
「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。・・・だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8・31-39)