19世紀の英国オックスフォードの神学者ジョン・ヘンリ・ニューマンは、すぐれた説教者のひとりである。・・・『今私は皆さまにお願いする。どうぞよく考えていただきたい。これらの仕打ちが誰に対してなされたかを。それは全能の神』・・・主の受難の出来事、各福音書が語る物語を静かに読みつつ、このニューマンの言葉をこころに刻んでいただきたい。なぜここでこの説教者が、このキリストを「全能の神」と呼んだかを。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、112頁
2020年4月13日(月)
私たちの罪とは、全能の神を十字架につけて殺してしまう罪です。それは自分こそ全能者でありたい、自分以外の全能者を殺してしまいたいという罪です。自己中心の罪というのですが、それはただわがままということにとどまらず、神を殺してしまいたいという罪なのです。
この殺されてくださった神さまは全能の神であるといいます。全能の神ならば死を避けることさえできたのではないか、と思います。しかしこの全能は死にまで従うことができるという全能だったのです。全能であるからこそ、愛の神であるということでしょう。この神が今日も私たちと共にいて下さいます。
「ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。」(ルカ23・23)
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(ピリピ2・6-8)