死の恐怖からは解き放たれている

み子イエスは、私ども神の子たちが持つ血と肉を、ご自分のものとしてくださった。それは、いったい何のためであったのか。私たちが死の恐怖の奴隷であったのを何とかして救うためであった。・・・死の恐れのとりこになると、私たちは神の子の自由を奪われる。神を父として信頼する自由を失う。神の国にふさわしい自由と信頼を失う。その私どものところに来られた主イエスは、私どもの死を死んでくださった。死人の仲間入りをしてくださった。・・・死を支配し、死の恐怖で私を支配しようとしていた悪魔を滅ぼしてくださった。死の王が死んだのである。このことを忘れないでいよう。私たちはなお死ぬ。しかし、死の恐怖からは解き放たれている!

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、111頁

2020年4月12日(日)

どのような人生を歩もうとも、すべての人の最期には死がやって来ます。そういう意味では死は平等です。すべてのひとがこの死の恐怖の前に日々立たなければならないということでしょう。死を解決せずして人生を歩んだことになりません。宿題をほったらかしにして遊びほうける夏休みみたいなものです。

主イエスさまは、十字架、葬り、陰府にくだる、そして復活によって、私たちの贖いの道を完成してくださいました。死のとげを滅ぼしてくださったのです。私たちはこの主イエスさまを信じています。信頼しています。ですから勇気を失うことがありません。

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」(ヘブライ2・14,15)