どこからか洩れてくる嗚咽の声

あるキリスト者からはがきが届いた。そこに一首の歌。「われもまた 兵なりしかばゴルゴダに イエスの衣奪いしと思う」。私は胸を衝かれた。かつて日本軍の兵士として戦争に参加し、戦後入信、教育者として生き抜いたひとである。上官の命令に絶対に服従して、殺人まで強いられたローマの兵にとって、属国ユダヤ人の哀れな罪人を侮辱し、その衣を奪うことなど何でもなかったろう。わたしのそのひとりであったら・・・。静かな口調の歌を繰り返し読んでいると、どこからか洩れてくる嗚咽の声が聞こえてくるように思う。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、110頁

2020年4月11日(土)

兵士は、上官に命じられて、その命令に絶対服従します。兵士がイエスさまを十字架につけたのも、上官への絶対服従によるものです。では兵士たちには罪はなかったのでしょうか。兵士たちは、自分たちは上官の命令に服従しただけである、罪は上官にある、と言い逃れをしたのでしょうか。このマタイの受難の個所をみると、兵士たちは命じられた以上のことをしたように思えてきます。

福音書の記事が、単に事実の羅列ではなく信仰の告白であるとして読むとすれば、このような兵士の行いは、兵士の罪の告白である、とも読めるような気がします。自分たちこそ主イエスさま苦しめたのだ、十字架につけたのだ、との告白と懺悔のような気がします。

「それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。・・・彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。」(マタイ27・27-36)