地上にも神のご意志が行われ、成就するように祈ることを主は求められる。・・・祈るたびに自分の願い事を立て続けに述べ立てる言葉を捨てて、私たちも祈るべきではなかろうか。苦難のなかにあっても、悲しみのさなかにあっても、私の願うとおりではなく、あなたのみこころが、この私の歩みにおいても、行われますように。それは諦めではない。運命を甘受する諦念ではない。主イエスは諦めてはおられない。神の愛のご意志に、明確な意志をもって従うための祈りの戦いが行われている。この祈りに支えられて私たちの祈りも可能になる。十字架の道を歩む主イエスの祈りに支えられて、私たちも祈る。明確な意志をもって主に従うために。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、106頁
2020年4月7日(火)
こうしてください、ああしてくださいと祈る祈りは悪いことではないと思いますが、それは神さまを自分の意志に従わせようとしていることかもしれません。自己中心から救われたと言いつつ、祈りが依然自己中心であれば、救っていただいた喜びに生きているとは言えません。主イエスさまのゲツセマネの祈りに支えられて、みこころが成るようにと祈りたいと思います。そこにこそ真実の私の、そして愛する人たちの、さらには世界の祝福があるのですから。
ある先生は、祈りとは小舟に乗っている私が港に頑丈に結わえ付けられているロープを手繰り寄せようとしているようなものだ、と言っておられました。引っぱれば引っ張るほど、岸が自分の方に近づいてきているように見えるけれども、実は自分の方が岸に引き寄せられている、ということです。自己中心の私が、祈りの中で徐々に変えられ、主イエスさまのみこころという港に到着できるように、今日も祈りに生きたいと思います。
「御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」(マタイ6・10)
「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」」(マタイ26・39)