ヨーハン・ゼバスティアン・バッハの「マタイ受難曲」は、説教者の手本でもある。・・・ゲツセマネの祈りの場面でテナーが歌う。「私は私のイエスの傍らで目覚めていたい」。主の言葉に応えてのことである。・・・私たちは目覚めていたい。ひとりではなく、祈りつつある主の傍らで。そうすれば、罪のほうが眠り込む。私たちのなかでうごめく罪を眠り込ませるために、主の傍らで目覚めていよう!
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、105頁
2020年4月6日(月)
目覚めているということは、祈っているということです。おおよそ祈りのない生活は、眠っている生活なのです。祈りのない生活、眠り込んでいる生活は、罪が生き生きと生きている生活です。
目覚めていましょう。主はともにいて下さいます。主と共に、主の傍らで目覚めていましょう。常に祈りの生活をしましょう。罪のほうが眠り込む生活をしましょう。
「そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。』」(マタイ26・38)