主イエスが、自分は弟子のひとりの裏切りにより死に渡されることを予告された。名指しではなかった。弟子たちに動揺が起きた。
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自分のなかにあるものを言い当てられた痛みが全身を貫いた。自分もまた主を裏切る。事実、こののち弟子たちは主を捨てた。・・・私たちも同じではないか。その私たちを主は愛されるのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、101頁
2020年4月2日(木)
このときの弟子たちのこころに生まれた「痛み」とは「自分のなかにあるものを言い当てられた痛み」であると語ります。
表面的には裏切らない自分を繕っています。しかし内面を見るときにそこに裏切る心があることを自分が知っています。そのような自分の内面を主はご存知であるのです。私の心の中にある裏切る心を主が見抜いておられる、その痛みである、というのです。私たちもこのような痛みを知っているでしょうか。
そして主はそのうえで私たちのために十字架にかかってくださいました。主は私たちのすべてをご存知の上で、いえご存知だからこそ十字架にかかり、私たちへの愛を明らかにしてくださったのです。私たちはみなこの愛に生かされています。
「一同が食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。」(マタイ26・21,22)