今私たちが描く主の十字架は、多くの場合、栄光に満ちている。残酷な死として描かれることがあっても、無視できない姿である。だが、ほんとうは、主は見捨てられて死なれた。軽蔑され、無視されて死なれた。・・・ローマの歴史に主イエスのことについてほとんど言及がないというのは、むしろ当然である。それは、私たち自身の病、私たち自身の痛みの真相に、私たち自身がどれほど遠かったかということである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、102頁
2020年4月3日(金)
主の十字架の死は、いわゆる殉教というのとは少し違うのだということでしょう。殉教というのは、自分以外の者のために、自分以外の者への限りない愛のために、自らのいのちを差出すということです。それに対して、自殺というのは、限りなく自分のために、自分に固執するために自らのいのちをすてるということです。そう考えるとイエスさまの十字架の死は殉教の死と言っていいのかもしれません。
しかし殉教というのは、どこか栄光に輝いているところがあるのだと思います。イエスさまの十字架の死はそういう栄光に輝いているということとは全く異質なものだったのだ、というのです。人びとから軽蔑され無視されて死なれた、それが主の十字架なのです。私たちの罪性は、十字架の死を軽蔑し無視するのです。
この自らの罪に気づくことが、聖書の語る信仰に生きるということでしょう。多くの宗教における教祖の死は殉教の死としてあがめられることがあるのかもしれませんが、主イエスさまの十字架の死は、それとは全く違うものなのです。キリスト者は、主の十字架を仰ぎながら、そこに何と立派なお方かと感心するのではなく、ただひたすら自らの罪に出会うのです。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。/彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。」(イザヤ53・3,4)