私たちの罪も たまたまの筆の乱れのようなものではなく、生来の、私たちの存在に食い込んでいるものであり、ただ冴えない、つまらない過ちですむものではない。私たちは、神の「敵であった」のである(ローマの信徒への手紙第5章10節)。竹森満佐一牧師は、これを、私たちは神の不倶戴天の仇としたと言われた。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、78頁
2020年3月11日(水)
救われていないといことは、神さまを敵として歩んでいるということなのです。敵とした歩んでいる私たちの為に、神が人となってこの地に降って来てくださり、十字架と復活のみわざをもって、和解の手を差し伸べてくださいました。すでに和解が実現しているのです。救われるということは、この和解を信じ受け入れるということです。
「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマ5・10)