アダムとエバの罪、それはいったい何であったのであろうか。・・・これを食べたら神のようになれる。そうしたら神を必要としなくなる。・・・それによって審きができる・・・神のように審くことができ、支配することができる。エバは、自分が神になれることに我を忘れた。神なくして生きられるということこそ、最大の誘惑であった。これこそ、現代人の最も欲していることであり、またまさに現代の悲惨を招いている罪の根っこにある思いなのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、66頁
2020年2月29日(土)
今年はうるう年で2月が29日まであります。
罪というと真先に思い浮かぶのがいわゆる犯罪です。そして道徳的な規範を破ることでしょう。聖書はそのような罪も罪として語るのですが、それ以上に、神のようになれる、ということが罪の根っこにあるものだと聖書は語ります。
罪びとである人間はすべてを自分の判断を正しいとして他者を、世界を、そして自分を審くことを求める、欲望するのです。それは結局、他者との生きる道を閉ざし、自然環境を破壊し、自分をさいなむこととなるのでしょう。幸福とは全く反対の人生となるのです。神のようになれるという道は、罪に生きる道となり、死の道となりました。
イエスさまは、そのような罪を赦すために十字架にかかってくださいました。十字架への道は父なる神さまへのまったき従順であり、神ご自身であるにもかかわらず、まったき人間となる道でした。私たち罪びとは、このまったき神でありまったき人となってくださったイエスさまによって、罪ゆるされて尽きることのないいのちに生きる者とされました。
「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3・5)