「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた」。マルコによる福音書第三章三節は、このような主イエスの言葉を伝えている。ある安息日、会堂の出来事である。手の萎えたひとは、いつも会堂にいた。しかし、いつも片隅にいたのに違いない。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、53頁
2020年2月16日(日)
当時、身体に不具のある人はユダヤの会堂では片隅にいなければならなかった、のでしょう。こんにちキリスト教会ではどうだろうか、と思います。じっとしていられない子どもたちは母子室にて礼拝をささげています。母子室は礼拝堂の片隅にあることが多いのではないかと思います。かといって礼拝堂の真ん中に座らせてあげることがよいのことなのだというと、きっとその子どもの親は落ち着いて礼拝をささげることができないでしょうし、周りの人も複雑な時間を過ごすことになるのだと思います。教会にやってくる人のさまざまな心模様を想像すると、その複雑な時間が苦痛になるひとも少なくないと思いわれます。ですからこのイエスさまの「真ん中に立ちなさい」という言葉は、とても大切であるとともに深い意味を持っているように思います。
神さまを愛して一所懸命に礼拝をささげたいと願っている人を片隅に追いやっていることとはいったいどういう状況なのでしょうか。何の飢え渇きもなく、まるで帳面消しのように礼拝の時間を過ごしているならば、礼拝のプログラムはすべて退屈な時間であり、当然のように居眠りか、はたまた私語、世間話し、携帯電話、スマホ操作とあらゆる怠惰に過ごす時間となるでしょう。そのような人びとに対して、分かっても分からなくても必死にみ言葉に耳を傾け、賛美を心一杯にうたい、祈りの言葉に集中しようとしている人がいます。帳面消しのように礼拝の時間を過ごしている人びとは、そのような「必死な人びと」を礼拝堂の片隅に追いやってしまっているのではないか、と思うのです。おおよそ怠惰に礼拝時間を過ごすとき、私たちはみな「必死な人々」を片隅に追いやっている張本人であることを忘れないようにしましょう。
礼拝においてはだれひとり片隅にいていいわけではありません。みなが真ん中に立って礼拝をささげているのです。全員が一対一で神さまの前に立っているのです。群衆の中にひとりであれば居眠りも起こるでしょう。しかし一対一で神さまの前に立っていながら、居眠りをするということはいったいどういうことでしょう。結局のところ神さまの前にいるということ、そのリアリティが乏しいということなのでしょう。どうすればそのようなリアリティに溢れた礼拝をささげることができるのか。まさに牧師に問われている課題なのだと思います。
「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。」(マルコ3・3)