自分に負わされている重荷

自分に負わされている重荷と、どのように向き合っているかというところでこそ、そのひとの真価が問われ、生き方が問われる。ストレスが生じ病気になるからと回避するのか。重荷がないと言うひとは間違っている。あるがままの自分を受け入れ、愛し抜くことも、共に生きる家族、隣人を愛することも重荷を負うことでしかない。だが、重荷は負いたくない。旅の途中で傷ついたひとを見つけながら、それを避けて通ったひとの気持も私たちはよくわかる。立ち止まって世話をすれば重荷を負うことになる。・・・憐みに生きる者は喜んで重荷を負う。重荷を負いあう世界でなければ、私たちは生きていくことができないではないか。主は、そう私たちに尋ねられる。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、52頁

2020年2月15日(土)

「主にすがる我に悩みはなし」(新聖歌325)という聖歌があります。歌いつつ歩まん!と歌う素敵な賛美歌です。しかしこの賛美を歌うごとに、信仰を持てば悩みがなくなると歌い出す歌詞に違和感を持つと、先日開かれた聖会にて講師がお話しくださいました。私も全く同感であると思いました。信じても悩みはあるし、いえ信じたばっかりに信じた者特有の悩みが起こって来るというのも実情ではないか、と思います。自分には悩みはない、と言い切る信仰者にかぎって、その周りにいる人がその人のおかげでどんなに悩んでいるか、などという状況もちらほらと見受けます。

さて重荷ということですが、愛に生きようとする者はすべてこの重荷を負うことになるといことで、その重荷の負い方によってその人の真価が問われるということ。そして重荷を負うということは、憐れみ深い者となるということ。結局憐れみ深さが問われているということでしょうか。

「憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。」(マタイ5・7)

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(ガラテヤ6・2)