私たちの信仰が「瀬踏みの信仰」であってはならない

私はよく教会員に警告したことがある、私たちの信仰が「瀬踏みの信仰」であってはならない、と。人生は旅に似ている。道を遮る水の流れがある。橋がなければ浅瀬を探る。岩を見つけて踏んでみる。浅瀬を確かめながら用心深く渡っていく。そのように神の信用度を確かめながら生きることがないか。それは内心神を疑っていることになる。それどころか、疑うがゆえに、主イエスを誘った悪魔と同じように神を試すことになるのではないか。悪魔のこころと私たちのこころとは、それほど遠くないのではなかろうか。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、36頁

2020年1月31日(金)

マタイによる福音書とルカによる福音書のそれぞれ4章には、イエスさまが悪魔から誘惑をお受けになることが記されています。この記事によるとイエスさまは三つの誘惑を受けられます。石をパンにする誘惑、悪魔を礼拝してまで権力と繁栄を手にする誘惑、神さまを試みる誘惑、の三つです。マタイとルカとでは二つ目の誘惑と三つ目の誘惑の順序が違っているようです。いずれも大切な問題ですが、ルカの福音書では三つ目にある神さまを試みることがとくに強調されているのかもしれません。

試すということが愛の対極にあるということは前回も考えましたが、今回はさらに神を試すことは悪魔のこころと同じではないだろうか、ということを考えることになりました。

「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。「神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。」また、/「あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。」』イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」と言われている』とお答えになった。」(ルカ4・9-12)