教会だけが、人間を人間として評価し、受け入れ、生かす

大人は私ひとり、ひたすら聞き役に徹した私が、一度だけ問うた。それほどにキリスト者であり続けることが困難な状況で、なぜ君たちは教会生活に励むのか、と。暫くの沈黙ののち、ひとりの少年が答えた。「ぼくを人間として扱ってくれるのは教会だけです!」。皆が静かにそれに同意を示した。国家の役に立つ教育の専心し、その点からしか人間を評価し得ない社会システムにあって、教会だけが、人間を人間として評価し、受け入れ、生かす。こういう発言を若者たちにさせる教会が生きていたのである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、31頁

2020年1月26日(日)

教会はまことのいのちを見出すところである、と。また教会はまことのいのちを与えることのできるところである、と。この地上にあって唯一教会はまことのいのちを与えることのできるところである、と。

このいのちに逆らう世界にあっては、義のために迫害されるのは当然のことなのかもしれません。義のために迫害されなくなってしまったら、それは神さまのご支配の中に生きていないということであり、いのちに生きていないということなのかもしれません。

「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイ5・10)