戦争の被害者としてではなく、何を他者にしたのかということを忘れないために

ドイツ西部にベルゲン・ベルゼンというところがある。かつてナチの大きな強制収容所があった。・・・隣接して立てられている低い建物のなかには、かつてそこで何が行われたか、正視できかねる写真パネルが立ち、その間に大学生ヴォランティアや教師と一緒に座り込んで高校生たちが学んでいた。自分たちドイツ人がここで何をしてきたかを。胸を衝く熱気があった。日本にこのような場所があるであろうか。・・・戦争の被害者としてではなく、何を他者にしたのかということを忘れないために、いや、それを後に続く者たちにもよく知ってもらうために、日本人は、日本のキリスト者は何をしているのであろうか。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、25頁

2020年1月20日(月)

人間のすばらしさは、罪を犯さないこと以上に、罪を犯したときにそれを主のまえに正直に悔い改められるかどうかにあります。

ドイツはナチの残虐な行為を忘れないようにさまざまな取り組みをしてきたと言われます。自分たちが倒れるまでに取り組んだとドイツからのある宣教師は語っておられました。いまドイツは倒れるどころか、とても豊かな国に前進していると思います。

日本が東南アジアに対して行ってきたことについては、言い訳ばかりが聞こえているのかもしれません。満員電車の中で電車が揺れた際に隣りの人の足を踏んだとして「ごめんなさい」と言わない人がいるでしょうか。電車が揺れたから仕方がなかったと言い訳をするのでしょうか。あの戦争は侵略戦争ではない、欧米列強からアジアを解放したのだなどとまことしやかに語られる言葉がきこえるたびに、日本人の矜持はどこにいったのかと悲しくなります。

罪を犯したダビデが悔い改めることができたのも、ダビデが素晴らしい人物であったということではなく、神さまの一つの奇跡が起こっているのだと思います。イエスさまを信じる者でなければ、この奇跡にあずかれない、真の悔い改めに生きることができない、ということなのでしょう。どんなに素晴らしい宗教もそこには自らが十字架にかかる神がおられないので、真の悔い改めが不可能なのだと思います。

しかしキリスト教会でも状況はもしかしたら同じなのかもしれません。十字架を抜きにしたキリスト教会には不可能なのかもしれません。教会の中でさえ日本人の矜持を見失った嘆かわしい発言か聞かれるのですから。米国の福音派キリスト教に関する報道を聴くたびに思いますが、福音派には難しいのかもしれません。もしかしたら福音派こそキリストの十字架を見失っているのかもしれません。

「ダビデはナタンに言った。『わたしは主に罪を犯した。』」(第2サムエル記12・13)