十字架において神と出会い、神の道と自分の道とが交差するところで、私たちは、自分で計画して歩いてきたのだと思いこんでいた傲慢に気づき、敗北を味わい、神の勝利を知る。そうなれば、一度交差して、その後はまた別の道というのではなくて、神の備えてくださった道として知った自分の道を、全く新しい、神の支配に従う思いで歩き始める。このような交差点を持つ人生は祝福される。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、24頁
2020年1月19日(日)
人がこの世で生きること、その間のことを人生というのですが、その歩みを道と表現するのです。自分に人生の道があるように、神さまにもその道があるというのです。神さまの道という場合、それは私の道とは無関係なところにある道というのではなく、私のために私の歩むべき道を備えていて下さる道のことです。私が自分勝手に歩む道ではなく、神さまが私のために備えていて下さる最高の道。それが神の道というのです。
神の道とわたしの道が交差するというのですが、別々の道がたまたま交差したというのではなく、本当はすでに神さまが備えようとして下さる、私が気づかなくても共にいて下さる、その神さまの御手を発見するとうことが、交差するということではないかと思います。ですからその交差はキリストの十字架なのです。天を押し曲げて下って来てくださったからこそ、その御手を発見できたのです。
「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」(箴言16・9)