その絶望に逆らいつつも、信仰の父アブラハムに無視されても、自分が属する神の民イスラエルが自分を否定するという悲しいことが起こっても、それでも、あなたは私たちの父、そう呼ぶのである。この時、自分を含めた一切の人間の認識に逆らい、自分の懐疑、絶望にも逆らい、「されど、あなたは私の父、私たちの父」と言い切る。この<されど>を支えるのは、私の強情、情熱ではない。主イエス・キリストにおいて鮮やかに見えてきた神の熱情、「わたしたちの贖い主」の「御名」に支えられてのことである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、17頁
2020年1月12日(日)
このイザヤ書63章16節のことばには、先だって15節に「あなたの熱情と力強い御業はどこにあるのですか」(共同訳2018)とあります。神さまの熱情が見えなくなったところで、それでも神さまへの信仰を確かにしようとするこころに、神さまの熱情が豊かに現わされているということでしょう。
つらい時に信仰によって助けられるといこと。つらいけれども信仰に助けられるということ。つらいから信仰に助けられるということ。いずれも神さまのみわざなのですね。
「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず
イスラエルがわたしたちを認めなくても
主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です。」(イザヤ書63・16)