このただ一人の人に対して私たち自身を明け渡すならば

人間は原理的にはすでに救われています。私たちは、その救いを、めいめい自分のものとしなければなりません。けれども真に困難なこと、人間が自力ではなしえないことは、すでに私たちに代ってなしとげられているのです。・・・霊的生命に満ちあふれている人、神でありながら同時に真の人間でもある、このただ一人の人に対して私たち自身を明け渡すならば、彼は私たちにおいて、また私たちのために、救いのわざを完全になしとげて下さるでしょう。

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このことはさまざまな形で言いあらわすことができると思います。キリストは私たちの罪のために死んで下さったという言い方もできますし、私たちがなすべきことをキリストが代ってして下さったから、父なる神さまは私たちを赦して下さったのだとも言えるでしょう。小羊の血によって洗われた――そう言ってもいいでしょうし、キリストが死を敗北させて下さったとも言えるでしょう。

どれもみな、本当です。あなたに感銘を与えない言回しを無理に取り上げるにはあたりません。あなたに感銘を与えるものを用いればいいのです。ただ、ほかの人があなたと違う言回しをしているからといって口論するのは、どうか、やめてください。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、477-478頁

2019年12月6日(金)

主イエスさまは救いのわざをすでになしとげて下さいました。私たちはこの救いをただ受け取るだけです。しかしこのただ受け取るということが難しいのです。それはただ信じるということなのですが、ただ信じるということが本当に難しいのです。

明け渡すこと、ゆだねること、がそれにあたると思いますが、どうしてもできないのです。聖霊の働きがなければだれもできないことなのだと思います。ですからただ主イエスさまを仰ぎ見て礼拝をささげることにこころを注いでいきたいと思うのです。

「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブライ9・12)