ゲツセマネにおいてかの至高至聖の嘆願者は「できるならこの杯を過ぎ去らせて下さい」と三たび繰返されましたが、その願いはかなえられませんでした。このことだけを取ってみても、祈りがあたかも失敗するはずのない手品のような意味で勧められているといった考えは、捨てる方がいいのではないでしょうか。
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『ハムレット』のなかで王が「心を伴わぬ祈りは天に届かぬ」と言う場面がありますが、祈りの言葉をただ唱えるだけでは祈りとは言えません。空念仏を唱えるだけでよいなら、人間にかぎらず、訓練を受けたオウムの一群だって、その種の実験に十分に役立つでしょう。病人の回復を心から願っているのでなかったら、そのために祈ることなどもともとできるわけもないと思います。しかしある病院のすべての患者の全快を願い求めながら、べつな病院の患者の回復をまったく願わないというのは、もともと祈りの動機として成り立ちません。その場合には患者の苦しみが取り除かれることを願っているのでなく、もっぱらどういうことが起るかを知りたいばっかりに、祈るということになります。つまり、祈りの真の目的と、名目上の目的とが食違ってしまうのです。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、445-447頁
2019年11月14日(木)
「祈りがあたかも失敗するはずのない手品」のような意味で聖書は祈りを勧めているのではない、ということです。テープレコーダーに願い事を録音しておいて繰り返し再生し、その繰り返しの回数が多いほどよく聞かれるといったようなことは、祈りとはまったく異質なことでしょう。祈りには、願いが伴わなければ、もはや祈りとは言えないのです。
罪びとである私たちは、自分のために、また世界のために何が最善であるかを知りません。自分のために、また世界のために何が最善であるかを知りつくしておられるお方の御心がなされることこそ、私たちの願うべきことです。祈りはそれを答えて下さるお方である神さまの全能とご支配を求めることなのです。
「信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。」(ヤコブ5・15-16)