神のみまえで人格という高次の地位を

私たちはいつも残りなく、したがってひとしく神に知られています。・・・この神の側の認識はけっして変わりませんが、人間の、神に知られているその質は変りうるのです。
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私たち自身が(a)この事実―一般論ではなくてこの現実の事実―に気づき、(b

)しかもそのように神に知られていることを肯定するとき、私たちは自分を、神との関係において物としてではなく、人格として考えはじめるのです。つまり、このとき私たちは顔の覆いを取り去るのです。
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受動的な姿勢が能動的な態度に変るのです。単に知られているというだけでなく、私たちがみずからを神に示し、告げ、どうか見ていただきたいと差し出すのです。
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神がそうした基盤に私たちを立たせて下さっているのだと教えられています。聖霊の助けによって、私たちは「父よ!」と呼びかけるのですから。

顔の覆いを取り去って罪を告白し、私たちの求めを神に知っていただくことによって、私たちははじめて神のみまえで人格という高次の地位を占めます。そして神御自身が身をひくくして、私たちにとって人格となって下さるのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、435-436頁

2019年11月7日(木)

神さまはすべてのことをご存知です。私たちが祈る前から私たちの必要をご存知です。しかし私たちが「神に知られていることを肯定するとき」、竹野訳では「心からそのようなものとして、神によく知っていただこうとする時」、神さまのとの関係は、人格あるものとの関係となる、というのです。

神さまとの人格あるものとしての交わりの中に生きることによって、私たちは人生の幸福を生きることができるのです。そのような幸福を私たちにもたらすために、まず「神御自身が身をひくくして、私たちにとって人格となって下さ」いました。竹野訳では「神は降りてこられて、わたしたちに対して、一人の人格と成るのです」。

「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8・26)

「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(第1コリント12・3)

「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(第1コリント13・12)

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4・6-7)