神は私たちが自分の自由意志で神の側につくことを期待していらっしゃるのです。連合軍がドイツに攻めこんでからはじめて自分の立場を明らかにして連合軍についたフランス人を、私たちはあまり高く買わないでしょう。・・・神が直接に乗り出していらっしゃるとき、それは世界の終りのときです。作者が舞台に上がるのは、劇が終ったときなのです。
神は間違いなく、私たちの世界に侵攻なさるでしょう。しかしそのときになってから、つまり、この自然的宇宙が一場の夢のように溶け去り、何かまったくべつのもの、私たちが思いもかけなかったものが怒濤の勢いで押しよせてくるとき、ある人にとってはえもいわれず美しく、べつな人にとってはこのうえもなく恐ろしいものが現れてもはや誰にとっても選択の余地がないとき、そうなってから「私は神の味方でした」などと言って、何になるでしょう? というのは、このとき私たちのまえに現れたもうのは、もはや身をやつしておられない神御自身、すべての人のうちに抵抗しがたい愛の思い、あるいは恐怖の思いを叩きこみたもう、圧倒的な存在だからです。このときになってからどっちにつくか、日和見的に選択しようというのでは遅すぎます。
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それは、自分がどっちの側を選んでいたかを思い知るときなのです『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、425-426頁
2019年10月31日(木)
「身をやつして」この地に来られた主のお姿を前に、その主への信仰に生きること。すなわち互いに愛し合いながら生きること。きょうもそのような道を選択するものでありたいと思います。
自分が神さまの愛に生きているかどうかを、最終判断されるのはイエスさまです。それは最終的な時、再臨の時に判断されます。私たちはただ光の子とされたことを喜び感謝して、自分なりに愛に生きることを選択します。再臨の時は、自分が本当に愛に生きたかどうかを思い知るときだ、ということでしょう。
「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」(第1テサロニケ5・2-6)