私の信仰はイエス御自身の権威にもとづいているのです

イエスが彼に従う者たちに新しい生命がこのような方法で伝えられると教えたということは、歴史上の事実として明らかだと私は思います。つまり、私の信仰はイエス御自身の権威にもとづいているのです。
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私はニューヨークという都市があることを信じています。見たことはありませんし、抽象的な推理によってそんな場所が必ずあると証明することはできません。私がそれを信じているのは、信頼できる人たちがそう話してくれたからです。
一般人が太陽系を、原子を、進化を、血液の循環を信ずるのは、権威にもとづいて―つまり科学者がそう言っているからです。

歴史上の出来事にしても、すべて権威にもとづいて信じられているのです。・・・数学における証明のように、そうした歴史上の出来事を純粋論理で証明することは誰にもできません。私たちがそれを信ずるのは、それを見た人がそれについて書き残しているからです。つまり、ほかの人の権威にもとづいて信じているのです。

宗教においてもあらゆる権威を否定する人がいますが、宗教以外の事柄においてそのように他人の権威にもとづいて信ずることに尻ごみする人は、一生の間無知のままでいることに甘んじなけれ(ば)ならないでしょう。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、419-420頁

2019年10月27日(日)

「正しい信仰を見分ける物差し(カノン)は「信仰の規準 regula fidei」と呼ばれた。このことば自体に様々な用法があったが、主には「聖書」「正しい教え(教理)」「監督(主教・司教)の権威」が regula fidei にあたる。これらは歴史的にも論理的にも同時進行で成立し、相互参照(クロス・チェック)によって正統信仰を守る働きを担っていた。その正当性の基準は「使徒的 apostolic」であること、だった。」(団体・神学セミナー 2019年10月19日 講師・金井由嗣先生)

ということで、結局のところ私たちの信仰は、イエスさまご自身の権威にもとづいているのです。

ということはイエスさまを信じるといことがあって、つまりイエスさまの権威を認める、受け入れるということがあってこそ、信仰が成り立つともいえるようです。

聖書信仰が、上記の相互参照の枠を超えて、正しい教え(教理)や監督(主教・司教)の権威よりも優先することになると、間違ってしまう可能性があるということでしょう。急進的なプロテスタント信仰は、ややもすると聖書信仰が、行き過ぎた聖書信仰となることがあるでしょう。あるいは正しい教えや監督の権威を否定したがために(否定したいがために)、聖書の権威のみに頼らざるを得なくなった実情もあるでしょう。

キリスト教信仰はイエスさまご自身を信じること、を見失ってはなりません。

「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。」(使徒3・15)