自分の努力によっては獲ち得られるはずもなかった生命を養い、保護している

あなたの自然的生命は両親から受けたものですが、だからといって、生命はほうっておいても支障なく存続するというものではないのです。・・・あなたは自然的な生命をねんごろに養い、それについてこまやかに心を遣わなければなりません。ただ忘れてはならないのは、その生命をつくりだしているのはあなた自身ではないということ、あなたはただ他者から受けた生命を維持しているだけだということです。

それと同じく、クリスチャンも自分のうちに注がれたキリストの生命を失う危険があります。ですから、それを維持するために努力する必要があるのです。しかしどんなに立派なクリスチャンでも、自分の力に依り頼んで行動しているわけではありません。彼は自分の努力によっては獲ち得られるはずもなかった生命を養い、保護しているにすぎません。ここから、きわめて実際的な結果が生じます。

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クリスチャンはけっして過ちを犯さぬ人間ではなく、つまずいても悔改めてふたたび立ち上がり、初めからやり直すことのできる人間です。それができるのは、彼のうちにキリストの生命がつねに彼を修復し、キリスト御自身がとげたもうたあの自発的な死を、彼もまた(ある程度)とげることができるようにして下さるからなのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、418-419頁

2019年10月26日(土)

信仰を持って洗礼を受け、聖餐にあずかっているならば「自動的に」キリスト者としての成長があるということではありません。ルイスは「努力」が必要である、と語ります。もちろんその努力も自分の力に依り頼んですることではないのです。しかし自分で努力をするチャンスも条件もあるにもかかわらず何にもせずに、キリスト者の成長はありません。神さまからいただいた永遠のいのちを日々養い、保護していかなければなりません。そうすることによって、日々悔改めて新しく出発することができる人になります。

「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エフェソ4・15)