キリストによるこの新しい生命が私たちにおよぶ手だてが三つあります

クリスチャンは信じています。私たちがキリストの謙遜と苦しみにあずかるとしたら、死に対するその勝利にもあずかるわけで、死後新しい生命を見出し、その生命のうちにあって完全な、またまったき意味で幸福な者となるだろうと。

これは、ただキリストの教えにしたがって生きようと努力するよりはるかに重要な意味をもっています。

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キリストによるこの新しい生命が私たちにおよぶ手だてが三つあります。洗礼と信仰、そして教派によって呼び方はさまざまですが、聖餐とか、ミサとか、主の晩餐と呼ばれている神秘的な儀式です。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、416-417頁

2019年10月25日(金)

人生にある苦しみや試練を「主の苦しみ」としてあずかるなら、十字架にかかられたのち復活された主のように、私たちも「復活」に、その勝利と栄光にもあずかります。大切なことは、苦しみや試練を主の苦しみとしてあずかることです。

このような信仰の生き方は、ただキリストの教え、聖書の教え、倫理道徳に歩むこととは全く異なることです。信仰に生きるということは、道徳的な生き方を生み出すことではありますが、道徳的な生き方をすることが第一の目的ではありません。新しいいのちに生きること。それが信仰の第一の目的であり目標です。

この新しいいのちを永遠の命という言い方をしています。ですから永遠の命というのは死後のいのちということだけではなく、今生きるこのいのちに深くかかわっていることです。

この永遠の命をどのようにして私たちはいただくことができるのか。ルイスは洗礼と信仰と聖餐である、と言います。ルイスはメソジストを例に出して、洗礼と聖餐よりも信仰を優先させるプロテスタント信仰もあるかもしれないが、それは例外的なことである、と言っています。

信仰さえあれば洗礼も聖餐も二の次である、というのはプロテスタント信仰の誤解であり、本来のキリスト教はプロテスタントも含めて、この三つが新しいいのち、永遠のいのちに生きる道を私たちにもたらすと語ってきました。メソジストのはじまりであるウェズリーでさえどれだけ聖餐を大切にしたことでしょう。

確かに信仰のない洗礼や聖餐は意味がありません。しかし洗礼や聖餐のない信仰も意味がないだけでなく、成り立たないのではないでしょうか。

信仰が「信じている主観的な気持」であるとすれば、いかにあやふやでうつろいやすいものであることか、と思います。目に見える物質による、そして神秘的な儀式を伴う、感情を超えた行為によって、信仰は信仰となるのではないでしょうか。

「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(第1コリント11・26)