キリストの死は、私たちの世界の外から私たちの世界に突入してきた私たちの想像を絶するものと人間の歴史との特別な接点です。しかし私たちには、これを映像化することができません。
・・・
私たちにわからないものが私たちにとって何の役に立つのか―そうあなたは問うかもしれません。その答は簡単しごくです。食事がどうして私たちの体を養うのかということを正確に知らなくても、食べることはできます。それと同じように、キリストが私たちのためにして下さったことがなぜ私たちのためになるのかということがわからなくても、それを受けいれることはできるのです。いえ、受けいれるまでは、それがどうして私たちのためになるのかということもわからないだろう―そう言ったほうがいいでしょうか。キリストは私たちのために十字架にかかって殺された―私たちはそう聞かされています。キリストの死が私たちの罪を洗い流したのであって、キリストは死ぬことによって死の棘を取り去って下さったのだと。これが公式です。これがキリスト教なのです。これだけはどうしても信ずる必要があります。キリストの死によってどうしてそうしたことがなしとげられたのかということについての理論は、どんなものにせよ、すべて二義的なものだと私は考えています。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、415-416頁
2019年10月24日(木)
これはキリストの死についての理論はどうでもよいと言っているのではありません。理論は大切です。しかし理論はあくまで二義的なものであって、絶対視しなくてもよいということでしょう。それよりも信じること、ゆだねること、受け入れることが、まず大切であること。また信仰生活の深まりにおいても大切であり続けること、が語られているのだと思います。
キリストの十字架の贖いが私たちの新し人生の基本であるということです。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(第1コリント1・18)
「神にできないことは何一つない。」(ルカ1・37)