理論はキリスト教そのものではない

神は敵に占領されているこの世界に、人間の姿で上陸なさいました。さてその目的とは、いったい何だったのでしょう? 神は何をしようとして、人間の世界にこられたのでしょう?・・・クリスチャンが主の死と復活こそ、最も重要だと考えていることは明らかです。彼らはイエスがこの世界にこられたのは、苦しみのすえに殺されるためであったと考えているのです。

さてクリスチャンになるまえには私は、クリスチャンがまず信じる必要があるのは、この死の意味についてのある特定の理論だという印象をもっていました。・・・けれども後には私はそうした理論は、いえ、どんな理論にもせよ、理論はキリスト教そのものではないと理解するようになりました。キリスト教の中心的な信仰は、キリストの死によってどうしてか私たちの神との関係が正され、私たちが新しい出発をすることができるようになったということです。

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どのようにしてこのようなことが行われるにいたったかについては、さまざまな理論があります。しかしすべてのクリスチャンが一致しているのは、それが実際に私たちに新しい出発をさせてくれたということです。

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疲れたとき、空腹なとき、人は食事をすることで元気を回復することができます。けれども現代の栄養学の理論―ビタミンについて、蛋白質についての―は実際上のこととは別問題です。人間はビタミンの理論を耳にしないうちから、食事をすれば元気を回復できるということを感じていました。ビタミンについての理論がいつの日か顧みられなくなることがあるとしても、人間は昔と変らず食事をするでしょう。

これと同じように、キリストの死についての理論は、キリスト教そのものではありません。そうした理論は、キリストの死が私たちのためにどのような働きをするかについての説明にすぎないのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、413-414頁

2019年10月23日(水)

キリスト教の教理というのは、結局のところ後でつけたもの、ということでしょう。私たちは、イエスさまにお出会いして、そのイエスさまの愛に出会って、新しく生きるようになった、ということです。その事実に、いまあるということです。この素晴らしい出会いを、無機質な理論に押し込めることは不可能です。

「彼は答えた。『あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。』」(ヨハネ9・25)