神は自由な意志をもつものを創造なさいました。・・・あるものが自由意志でよくなることができるとすれば、同じく自由意志でわるくなることもあるはずです。・・・もちろん、神は人間が自由を悪用したらどういうことが起るか、ご存知でした。しかし神はどうやら、自由というものはそうした危険をあえておかすだけの価値があると考えられたようです。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、405-406頁
2019年10月17日(木)
「自由意志」については、しばしば教会の中でも質問があります。神さまは全能のお方なのに、人間をお造りになったときにどうして罪をおかすことができないように造ってくださらなかったのか、罪をおかしたばっかりに、地獄に行かなければならなくなったのではないか、神さまは無責任だ、というようなことです。これは罪をおかせば地獄に行き、罪がなくなれば(あるいはゆるされれば)天国に行くといった、考え方の中で出てくることなのかもしれません。しかし聖書は、罪の中にあること自体が地獄であり、罪の赦しの中にあること自体が天国であり永遠のいのちであると語っていますので、すこし議論の土台がずれているということではないかと思います。
私たちが天国に生きる、永遠のいのちに生きるということが、神さまの愛の中に生きるということであれば、すなわち神さまに愛され、神さまを愛する愛の中に生きるということであれば、その愛が愛であるためには自由意志がどうしても必要でしょう。ただ問題は人間が、その自由を神さまを愛するために用いず、自己中心に生きるように濫用したことにあります。ですからイエスさまを信じたといっても、あいかわらず自己中心の中に生きているならば、その人生は地獄であるといわざるを得ません。あるいは天国、永遠のいのちのすばらしさを味わっていないということでしょう。
イエスさまは、神であるにもかかわらず人となって、父なる神さまに完全に従順の道を全うしてくださいました。私たちはこのイエスさまのおかげで救われました。イエスさまを信じ、イエスさまにならい、イエスさまに従っていく所に、天国があります。その天国は死んだ後の天国だけを語っているのではなく、その人生そのものが天国であるということです。
それにしても、神さまは全能なるお方ですから、人間に自由意志など与えたら罪をおかすであろうということが想像できなかったわけではないでしょう。そう考えると創造のみわざそのものが神さまの愛に根ざしていると思えてきます。十字架にかかる御覚悟のうちに創造されたといってもよいのだと思います。
「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。」(第1ペトロ2・16)