自然的秩序と複数の自由意志の存在に伴う苦しみ、痛みの可能性を排除しようとすることは、人生そのものを排除するのも同じ

神が物質のありかたに修正を加えて、いわゆる奇跡を行うことがおできになるということ、また実際、おりにふれてそうなさる―ということは、クリスチャンの信仰のうちに含まれているところですが、多くの人がともに住まいする安定した世界という概念そのものが、そうした奇跡の行われるおりがきわめて稀であることを要請するのです。

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定まった法則、原因結果の必然的連鎖、自然的秩序のすべては、そのうちにおいて被造物の社会生活がいとなまれる限界を画するとともに、そのような生活を成り立たせている唯一の条件でもあるのです。

自然的秩序と複数の自由意志の存在に伴う苦しみ、痛みの可能性を排除しようとすることは、人生そのものを排除するのも同じだということに、あなたは気づくに違いありません。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、359-360頁

2019年9月13日(金)

私は奇跡を信じています。聖書における最大の奇跡は、処女降誕と復活だと思います。自然法則からはありえないことです。しかしこの奇跡にキリスト教信仰の土台があります。この奇跡を否定したり、合理化してしまってはキリスト教信仰が成り立ちません。

また私は十字架に神さまの奇跡をみます。もちろん誰であっても十字架にかけられたなら死ぬでしょう。それ自体は奇跡でも何でもありません。しかし死ぬはずのない神が死んだというところに奇跡があると思います。この奇跡なくしてまたキリスト教信仰は成り立たないでしょう。

これらの奇跡に対して、私たちが日ごろの生活の中で自分の都合のよいことを願うことにおいて奇跡を期待するという奇跡があります。そこにも信仰の姿があります。しかしそれはキリスト教ならではの信仰の姿ではなく、すべての宗教にある信仰の姿でしょう。そのような奇跡を求めるときに自然の秩序との兼ね合いを考えなければなりません。いつも自分の都合の良い奇跡が起こるとすれば、自然の秩序はなくなってしまいます。世界は、変化するもの、あるいは安定しないもの、無秩序なものとなっています。信仰者とはいえ、もとより罪びとでしかない一部の人間の都合の良い世界となってしまうことが、はたして神さまのみこころの世界なのでしょうか。ですから自然の秩序は大切なものなのです。ルイスは自然の秩序を排除すること、そしていろいろな願いを持つ者が一つに生きていることからくる苦しみや痛みを排除することは、人生そのものを排除することである、といいます。

「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。」(第1コリント14・33-34)

ところで聖書は秩序を重んじます。パウロはコリント人への手紙の中で上記のように語りかけています。神さまは平和の神さまであるから、と。ただこの聖書の個所はいかがでしょうか。こんにち女性たちが教会で発言することを否定するとすれば、それはまったく女性の人権を無視していることでしょう。女性が発言しなければ成り立たない教会も多いのではないでしょうか。女性が発言することこそ秩序を守ることなのではないでしょうか。そうすると「秩序」はつねに時代の限界の中にあると言えるのではないでしょうか。この聖句を時代を超える普遍的真理とすることは、かなりの無秩序、あるいは混乱を生み出すことになるでしょう。

秩序を重んじるということは、もっとも基本的な戒めである「互いに愛する」という基準に従って、その時代の中での考察が必要となるのではないでしょうか。