神の自由とは、神御自身以外のいかなるものも神の行為の作用因ではないということ

人間の自由がどのような意味をもっていようとも、神の自由が二つの選択肢の間の迷いの後に行われる選択を意味するということはありえないのです。
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神の自由とは、神御自身以外のいかなるものも神の行為の作用因ではないということ、どんな外的な障碍物も神の行為を阻まないということです。
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一つの存在の状態と他の存在の状態を比較することはできるでしょう。しかし存在と非存在を比較しようと試みても、単なる言葉の遊びに終るだけです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、360-361頁

2019年9月14日(土)

神さまの創造のみわざに、悪はひとつもありません。私にとって、悪と見えることはあるかもしれません。しかし神さまを信じるということは、私をつくってくださった神さまを信じるということであり、その神さまの創造のみわざが善であるということを信じることですから、私の存在の根底には神さまの善があると信じることなのです。こんなことなら死んだ(存在しなかった)ほうがましだ、というとすれば、そのぞんざいしない自分にとってのましなこととはいったい何でしょう。存在しなければましもなにもないでしょう。そうすると善であり愛である創造主である神さまを信じるということは、もう自分で自分を支えなくてもよいということを信じるということなのです。

「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」(創世記1・31)

「というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。」(第1テモテ4・4)