経験からキリスト教の信条に向き直ったとき

彼はその砂漠で、おそらく神を本当に体験したのでしょう。そうした経験からキリスト教の信条に向き直ったとき、彼がきわめて現実的なあるものから、現実性の薄いものへと向き直ったことは事実だと思います。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、350-351頁

2019年9月6日(金)

「キリストの教え」にとどまりなさい、とヨハネは語りました。この場合、聖書のことばにとどまりなさい、というのと少し違っています。聖書とキリストの教えは同じであると思うのですが、聖書の教えといわずにキリストの教えにとどまりなさい、と語るのです。

聖書は、誰にでも理解できる複数の解釈の余地のない単純明快な部分と、他の個所と比較すると整合性のないかのように思える部分、いくつもの解釈ができてしまう部分を持っています。ですから聖書の教えと一口に語ってしまうと、ヨハネが語らなければならなかった背景、すなわち異端的な教えに対しては、さまざまな意見が出てきて、結果的に無力であったということではないでしょうか。たとえば神さまが三位一体であることを否定する宗教があります。かれらに聖書をもって理解を得ようとしても難しいことがあります。聖書の中には三位一体という言葉がありませんから。しかし創造主であり、かついのちを捨てるほどの愛をお持ちの神さまを語ろうとすると三位一体でしか説明がつかない、というのが聖書を読みつつ教会として礼拝をささげる者のこころにあったことでした。そのように、聖書には直接的には書かれていないけれども、根本的な教え、すなわちキリストの教えにとどまること、が大切なのだと思います。

イエスさまは、新しい戒めとして互いに愛し合うようにと弟子たちを招かれました。どんなに聖書的に見えることであっても、互いに愛し合うこと、にならないならばそれはキリストの教えに反しているということでしょう。聖書的でありつつ互いに愛し合うことにならないことがある、ということです。

さて、今日のルイスのことばは、あるときルイスが神学的な講演をしたときに、一人の老将校が反論したことにまつわってのことばです。老将校は、神さまに出会ったという決定的な実体験が自分にはあるから「神についての・・・学者お得意の、ちんまりとまとまった教義や信条を信ぜんのですよ。本物に出会った者には、教義や信条は下らない、知ったかぶりの絵空ごととしか、思えんのです」と語ります。

これに対してルイスは神学とは地図のようなものであると語ります。たしかに実際のその土地に立った者にとっては、地図は絵空ごとであって、実物ではない。しかし地図は多くの人がその土地を恐ずれて出来上がったものであり、一人のひとの経験に比べるとおびただしい数の人の経験が詰まっているものではないか。またどこかに行きたいと思うならやはり地図は必要なのではないか、といいました。

私たちはキリストの教えにとどまりたいならば、やはり神学が必要なのです。神学が地図ならば、聖書は少し飛躍しますがそれ自体実体験のようなものではないでしょうか。

「だれでも、『先を行って』キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。」(第2ヨハネ9)