・・・冷静な知性は敵側の冷静な知性に対抗するためだけでなく、知性をまったく否定する、混濁した異教的神秘主義に対しても、戦わなければならないのです。
なかんずく、私たちは過去をつぶさに知る必要があるのではないでしょうか。・・・まだ到来していない未来について研究することはできない相談ですが、時代が違うと根本的な通念からしてまったく違うのだということ、教育のない人々に自明と見える多くのことが一時的流行に過ぎないのだということを思い起すために、現在と対照できる何ものかが必要なのです。
さまざまな土地で暮らしたことのある人は、生れ故郷の村の地方的な誤謬によって欺かれることがないでしょう。学者はこの点、いろいろな時代に住んでいるようなものです。ですから彼自身の時代の出版物から、またマイクロホンから流れ出るナンセンスの洪水に対して、ある程度の抵抗力をもっているのです。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、349-350頁
2019年9月5日(木)
テモテに向かってパウロの語る「不当にも知識と呼ばれている反対論」とはいったいなんでしょうか。当時のグノーシス派のことでしょうか。今日においてはどのような意味があるのでしょうか。さまざまな知恵や知識を否定していることなのでしょうか。
上記引用の「学者はこの点、いろいろな時代に・・・」は、西村訳では「つまり学者は多くの時代に住んでいるので、それゆえにある程度は、今の時代の新聞やラジオから滝のように注がれる迷蒙の渦に呑まれずにすむのです。」となっています。
冷静な知性は、罪と暗やみの世界の中にあって生きていく武器であるといいます。哲学や歴史学はまさに有用な武器であるということでしょう。
過去を正しく学ぶことが、未来をよりよく生きる道を開いていくということでしょう。歴史は見方によっていろいろな印象を受けるものです。しかし歴史自体を修正して教えてしまっては、同じ過ちを繰り返す危険があるでしょう。その点歴史の先生は未来のために大切な存在です。長い歴史の中にはさまざまなことがあったわけですから、今のことごとも一過性のことであると冷静に見つめる視点をも与えてくれるでしょう。「ナンセンスの洪水」「迷妄の渦」に抵抗力が育まれそれらに飲み込まれずにすむ道をひらくのです。
キリスト信仰に生きる者は、イエスさまという人格をお持ちの神さまとともに生きる者です。またこの神さまは三位一体においてご自身を表わされる神さまです。この神さまという確かなご存在をいただいているのですから、それ以外のものはすべて相対的なものであることを知っています。にもかかわらず教会の歴史を見ると「それ以外のもの」を絶対視してしまうことがたびたび起っているのはどういうわけでしょう。それこそ偶像礼拝なのではないでしょうか。
「テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。恵みがあなたがたと共にあるように。」(第1テモテ6・20-21)