人間の本性にもとづく自然的な活動は、それらが神にささげられるものであるかぎり、どんなにつつましいものでも神に受けいれられるでしょう。その一方、どんなに高尚なものであっても、神にささげられないかぎり、罪深いものとなるでしょう。キリスト教は、私たちの自然的生を取り去って新しい生をもってこれに替えるだけではありません。それはそれ自身の超自然的な目的を果たすために自然的素材を活用する、新しい仕組なのです。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、347-348頁
2019年9月4日(水)
アナトール・フランスの「聖母と軽業師」だったでしょうか。職業に貴賎なし。どんな愛に満ちた行為も、神さまのために行っていない、すなわち自分のために行っているだけであるならば、あまり尊いものではない、それに対してどのような行為であっても、神さまのために行っているならば、そこに尊さがある、ということでしょう。
ただ神さまのために、というのはこれもまた難しいことで、ある国では神さまのためにということで、人を殺しています。神さまのためにということで、すなわち聖書的でないということで、人を否定しています。
神さまのために、ということは、イエスさまのお語りになられた「新しい戒め」にすべて集約できるのではないでしょうか。新しい戒めとは、互いに愛し合うことです(ヨハネ13章34節)。字義どおりに聖書を読むことによって、かえって互いに愛し合うことにならない現実があるのですが、どうすればよいでしょうか。
「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(第1コリント10・31)