クリスチャンが受洗して招かれ入れられる社会は、集団ではなく、一つの体です

クリスチャンが受洗して招かれ入れられる社会は、集団ではなく、一つの体です。
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私たちはそもそもの初めから創造された者として創造主と、死すべき者として永遠なる者と、贖われた罪人として罪なき救い主と、一つになるべく招かれているのです。神の臨在、神と私たちとの相互の働きかけこそ、その体のうちで私たちが営む生活において圧倒的に重きをなす要素でなければなりません。神との交わりを本来的に意味しないなら、クリスチャンの交わりなどという概念は有名無実です。
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私たちはみなたえず教え、教えられ、赦し、赦されています。私たちが他の人のために取りなすとき、それはキリストを代表しているのであり、他の人が私たちのために取りなしてくれるとき、私たちはキリストに対して人間全体を代表しているのです。
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従順は自由への道、謙遜は喜びへの道、総合は個性への道となります。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、326-327頁

2019年8月20日(火)

キリスト教会が、入信希望者に対して授けている水を用いた儀式を「洗礼」と言います。洗礼式が個人的なものではないことを明らかにするために、「洗礼入会式」という言い方をする場合がありますが、これは洗礼はキリストの体である教会という共同体の一人となることであり、そうして自由と喜びと個性の道に生きることができるとの教えからです。
ところでこの洗礼式が水を用いることから、バプテスマのヨハネの行なった「悔い改めの洗礼」つまり「水のバプテスマ」であると理解されてしまうことがあるようです。教会の中においてもそのような理解があると、結局、この洗礼式では不十分であり、もっと霊的な、いわゆる本当の洗礼が必要である、といわれたりします。その洗礼を「聖霊のバプテスマ」という言い方をして、異言を伴う体験やその他の霊的な体験をこれに当てはめ、すすめる教会もあります。
しかしキリスト教会が授けている洗礼は「父と子と聖霊の名によって」授けられています。つまり水を用いる洗礼という儀式そのものが「聖霊のバプテスマ」なのです。聖霊という言葉を、個人的霊的体験という文脈で理解すると上記のような誤解を生みだしてしまうのだと思いますが、聖霊という言葉は教会という文脈の中で理解しなければならないのだと思います。

「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」」(使徒1・5)

「パウロが、『それなら、どんな洗礼を受けたのですか』と言うと、『ヨハネの洗礼です』と言った。そこで、パウロは言った。『ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。』人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった。」(使徒19・3-7)

「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(第1コリント12・13)