教会が私たちに差し出している清新の気、浄化し、力を与える相違への回復

私は子に対する親の権威、妻に対する夫の権威、無知な者に対する識者の権威は、動物に対する人間の権威と同じく、創造の計画の一部であったに違いないと考えています。もしも私たちが罪に堕ちていなかったなら、フェルマーが言うように、家父長的君主制こそ、唯一の合法的な政体であったでしょう。けれども私たちが罪を知ってしまった以上、私たちはアクトン卿が言っているように、「権力はことごとく腐敗するものであり、絶対的権力は徹底的に腐敗する」ということを事実として見てきました。
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私は教会の礼拝のときに聖職者が立ち、会衆が跪く瞬間があるのを喜ばしく思います。外の世界において民主主義がいっそう徹底して行われ、尊崇の機会が一つまた一つと取り去られて行くにつれて、教会が私たちに差し出している清新の気、浄化し、力を与える相違への回復がますます必要となるのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、327-329頁

2019年8月21日(水)

互いの違いを健やかに認めること。そして権威の違いがあること。権威の違いがあっても、互いの価値に違いはないこと。健やかな人間として生きる道が生れます。

「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」(エフェソ4・10-11)