ひとたび死ななければ、何ものも復活することができません。この点、キリスト教は個人主義と集団主義という相対立する二つの立場の両面をもっています。
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個性は確かに永遠で犯しがたいものです。とはいえ、それは私たちの出発点となる所与ではありません。・・・真の個性は行く手にあります・・・真の個性の鍵は私たち自身のうちにはないのです。
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永遠の宇宙のうちには、私たちが占めるべく意図されている場所、私たちがそのために創造されている場所があるのです。私たちがそこに落ちつくとき、個性はおのずと私たちに訪れるでしょう。
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私たちも自分の場所にぴったりはめこまれたときに、はじめて真の個人になるのです。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、329-330頁
2019年8月22日(木)
美術の制作において、個性を発揮し発展することは大切なことでしょう。しかしもとから発揮し発展すべき個性を持っているのだろうか、と疑問に思う事もあります。多くの作品に触れ、多くの個性に出会い、そうして自分自身に出会っていくということは大切なことだと思います。つまり個性を持つためには、学びが必要なのです。
それはさておき、個性を持った個人となるためには、「私たちがそのために創造されている場所」にぴったりとはめこまれるということが必要となってきます。つまり個人となるためには、個人だけではなれない、共同たちの中に生きなければならない、ということでしょう。一見矛盾しているようなのですが、大切なことを語っているように思います。
「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4・12-13)