キリスト教は孤独のおりだけのものであるというのは間違ってはいるが、とはいえそれは深い意味で自然な誤りで、ある大いなる真理を何とか守ろうという人間の努力の表われでもあるということを強調しなければなりません。そうした強調の背後にあるのは、現代の集団主義は人間性に対する暴虐であってこのことにおいても神は私たちの大盾小盾となって悪から守って下さるという、明確な気持なのです。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、319-320頁
2019年8月15日(木)
キリスト教は神さまのまえに私という個人が信仰の告白をすることですが、同時に教会生活に生きることでもあります。教会生活は共同体に生きることですが、集団主義、全体主義に生きることではありません。これはバランスの問題なのでしょうか。なかなか難しい問題です。
上記の言葉は西村徹訳では以下の通りです。
「キリスト教はプライヴェートなことだとする把え方は間違いではあっても、それはきわめて自然な把え方であって、不器用ながらも大きな真理を守ろうとしているものだということを強調しなければなりません。その背後には、今日の集団主義は人間の本性に対する凌虐であって、すべての他の悪同様、この悪をも防ぐ、神はわが大盾また小盾であられるという、まぎれもない感情があるからです。」(『栄光の重み』、「メンバーシップ」、159頁)
漢字の話ですが、この西村訳の中でつかわれている「把え方」は「捉え方」、「凌虐」は「陵虐」が一般的のようです。
「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」(1テサロニケ5・14)