礼拝に目新しさが感じられるとき、会衆の注意はとかく礼拝そのものでなく、司式者に集中します。・・・どんなに雑念を去ろうとしても「今度はあの牧師さん、何をやるつもりだろう?」という気持はどうしても入りこむでしょう。ある人が「ペテロへの主の委託が『私の羊を飼いなさい』であって、『私のネズミを材料に実験を行いなさい』でも『私の犬に芸当を教えなさい』でもないということを、聖職者たちが覚えているといいのだが」と言ったそうですが、無理もないという気がします。
つまり私は、教会の典礼の永続性と統一性を強く願っているのです。・・・私がある礼拝形式に馴染みはじめた矢先にそれが変えられてしまうというのでは、礼拝者として少しも進歩しないということになります。訓練して身につく習慣(habito dell’arte)を自分のものとする機会がまったく与えられないのですから。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、316-317頁
2019年8月13日(火)
「訓練して身につく習慣を自分のものとする機会」。それが礼拝の大きな意味であるとルイスは語ります。礼拝は、映画や演劇ではありません。礼拝に集まってくる人たちはお客さんではありません。礼拝はささげるものです。
礼拝において「永続性と統一性」を強く願っている、と言います。竹野訳では「永続性と一定不変性」と訳されています。変えなければならないこと、変わらなければならないこともあるのだと思います。しかし変わらないということの中に大切な意味があるのです。自由な礼拝と言いますが、それは結局は自分勝手な礼拝ということではないでしょうか。
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4・24)
「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」(ヨハネ7・18)
「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』イエスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』」(ヨハネ21・17)