完全な礼拝は、私たちがほとんど意識しないたぐいの礼拝でしょう

目新しさというものは、ただ目先が変わっているという点で関心をそそるにすぎませんし、信徒は楽しませてもらうために教会に行くわけではありません。信徒は礼拝によって信仰生活が裨益されることを願って教会に行くのです。礼拝を行うために行くと行ったほうがいいかもしれません。
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完全な礼拝は、私たちがほとんど意識しないたぐいの礼拝でしょう。その場合、私たちの注意はもっぱら神に注がれているでしょうから。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、315-316頁

2019年8月12日(月)

プロテスタント教会の礼拝の多くは、いわゆる自由なプログラムによる礼拝となっています。主の祈りや使徒信条の位置、賛美の回数、聖書朗読の個所、交読、祝祷の有無や形、などなど。儀式的な礼拝に対するアレルギーからか、自由なプログラムの中に神さまが働かれるとの願いからであるのか、それとも人間中心からくる自分勝手からなのか。何やら霊的な感じがする場合もありますが、多くの場合礼拝に集中できなくさせてしまうように思われます。ルイスが指摘するように、ダンスをしているときにステップが気になっているうちはダンスをしていることではない、と同じようにプログラムが気になってしまっているときは、神さまに集中できないのです。その点決まったプログラムの礼拝、とくにカトリック教会の礼拝に出席してみると、決められたプログラムによる安心感と、その安心感からくる礼拝の霊的な雰囲気が、そこには満ち溢れています。
いまさらプロテスタントの礼拝を統一することもできませんし、できるかぎり地方教会がそれぞれの伝統を大切にして行くことでしょうか。

「3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。」(フィリピ3・3)