終始一貫して私たちを信用してくれた人々に対するもの

法廷で無実と認められて後に私たちを信用してくれる人々と私たちの関係が、終始一貫して私たちを信用してくれた人々に対するものと同じであるはずはありません。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、262-263頁

2019年7月3日(水)

西村徹訳では「わたしたちが潔白だと法廷で証明された後はじめてわたしたちを信用する人とのわたしたちの関係は、終始変わらずわたしたちを信用した人との関係と同じであるはずがありません」(『栄光の重み』「信のかたくなさについて」、新教出版社、63頁)

復活のイエスさまがトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである」といわれたのは、信仰に入るときの人間になにも考えないでやみくもに信じなさいといっているのではなく、すでに長く信仰生活をおくっている人間にたいして、終始変わらず主イエスさまを信用することの幸いをかたっていてくださるのです。

信仰生活の幸いは、なにがあっても主イエスさまを信頼して生きるところにあります。

きょう7月3日は「聖トマ使徒」の日ということで、このデボーションテキストの表題も「使徒トマス」となっていて、トマスにまつわる箇所からの黙想となっていました。

「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」(ヨハネ20・29)