私たちはしばしば心を傷つけられたというふりをします(感受性が鋭いから、繊細だから、ちょっとしたことに傷つくわけです)。ところが問題はじつは私たち自身のうちにあるのです―つまり他人が羨ましかったり、虚栄心が満たされなかったり、やりたいと思っていたことを阻まれたりといった場合がしばしばなのではないでしょうか。
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一般に感じやすさと言いならされているものは、家庭の専制君主の強力な武器です。ときとしてこの武器は、生涯にわたって威力を発揮します。他人のうちにこうした気配が見えるとき、どう対処したらいいか、それは私にはわかりません。しかし自分自身のうちにそうした徴候が見えたときには、断固たる態度を取るべきです。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、211-2頁
2019年5月28日(火)
西村徹訳では「羨望や、充たされぬ虚栄や、ままならぬわがままが真の悩みの種なのに、自分たちの、感じやすく脆い感情(わたしたちの繊細な性質といったものは、まことに傷つきやすい)が傷つくふりをして見せたのか?」「全くのところ、普通に『感じやすさ』と呼ばれているものこそ、家庭の暴君の、時には生涯にわたる暴君の武器である。他人の中のその要素をどう扱うべきかよく分からぬが、わたしたちは自分自身の中にその最初の兆候が見えたときは、それに対して仮借ない態度をとらねばならない。」(『詩編を考える』、C・S・ルイス宗教著作集5、西村徹訳、新教出版社、1976年7月31日発行、2000年3月20日新装版発行、21-22)
人間は傷ついたり、傷つけたりしながら生きています。そうなるのは、ともに生きているからです。共に生きることをしないならば、そういうことも起こらないでしょう。精神的な距離が短いからそういうことも起るのでしょう。
傷つけられたと感じたとき、傷つけた相手にももちろん問題があるのかもしれません。しかし多くの場合、傷ついた自分自身の中にこそ問題があるのではないか、とルイスは語ります。そこに羨望、虚栄心、わがまま、がそれを生み出しているのではないか。結局ところ傷つけているのは自分自身ではないか。そう問いかけているのではないかと思います。自分自身が傷つけているとすれば、傷つけないように自分自身がまたすることができるのではないかな、と思います。
断固たる態度、仮借ない態度をとらなければなりません。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリピ2・3-4)