世間の人たちは、私たちクリスチャンが墓のかなたの世界にいわば投資していることを知っているので、私たちが次元の高い思想の持主、「死は問題ではない」と静かに語る人々以上に死によって心を動かされないだろうと想像するかもしれません。しかし私たちにはそうした高邁な考えはないのです。私たちの主御自身、ラザロの墓のかたわらに立って涙を流されました。
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私たちクリスチャンは他の人々にまさって死のうちに大きな希望を見出しているはずです。けれども、死の不自然さに対してはその私たちも、何とも妥協しかねるものを感ずるでしょう。人間は死のために創造されたのではないということを、私たちは知っています。・・・私たちの主がよみがえりたもうたがゆえに、死はある次元ではすでに武装解除された敵であることを、私たちは知っているのです。一方、自然という次元もまた神が創造されたものだということがわかっていますから、苦痛、貧困、野蛮、無知など、自然を汚す汚点のすべてに対してと同様に、死という汚点に対しても私たちはやむことなく戦わずにはいられません。何かをこの世以上に愛するからこそ、私たちはこの世をも、それしか知らない人々以上に愛するのです。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、193-4頁
2019年5月16日(木)
この世に存在するもの、目に見えるものしか信じないとして、この世に存在するものを真実に愛することができるのか、というとどうもそうではないようです。
永遠のいのちを信じている者、この世のものだすべてではないこと、見えるものだけではなく見えないものに生かされていることを信じている者こそ、この世のすべてものを真実に愛することができるのでしょう。
「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10・39)
「イエスは涙を流された。」(ヨハネ11・35)