キリスト教は私たちに、困難な仕事はある意味では私たちに代ってすでになしとげられていること―むずかしい字をおぼつかない手つきでなぞって書こうとする私たちの手を、大いなる教師の力強い手がしっかりと支えていること、私たちはただそれをなぞればいいのであって、私たち自身が手本となる必要はないのだ―ということを教えます。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、194-6頁
2019年5月17日(金)
宗教には大きく二つあって、自分が神になると教える宗教と、自分が真の人間になると教える宗教があるようです。
キリスト教は、人間は神に造られたものであって、神ではないと語りますので、後者の宗教でしょう。
しかしこの人間は、神のかたちに似せて造られたとも聖書は語りますので、ほんとうに素晴らしく善いものとして造られたのです。その善いものが罪によって壊されてしまいました。イエスさまはそれを回復して下さったのです。イエスさまを信じるということは、最初に造られた善いものである真の人間になることです。これをある人は、神になる、と表現するようです。この神なるということは、文字通り神になるということではなく、真の人間になるということを語っているのでしょう。
それにしても、人生には苦しみや困難があります。イエスさまを信じることによって、その苦しみがなくなるわけではありません。イエスさまを信じることによって、困難を乗り越えることのできる強い精神が形づくられるということでもありません。相変わらず人間は弱いのです。その弱い人間を支えていてくださる神さまがともにいてくださるということを知ること。それが人生を大きく変えるのです。困難に出会ったということは、理由が常にわかることではないのですが、神さまの御手の中にあることだ、と信じて、与えられた道を自分なりに歩んでいけばいいのだと思います。
「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネ19・30)