現代人のうちには、後世への義務だけが唯一の人間の義務であるかのように言う人がいます。何百万という現代人に残虐で不当な行為が加えられるのを、そのために未来の世代が恩恵をこうむるならそれも仕方がないと考える良心的な革命家は、この世の終末というものに誰よりも怖気をふるうことでしょう。何しろ、彼が重視する未来の世代そのものが存在すべくもないということが、一瞬にして明らかになるのですから。
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現世に対する万能薬を投与しようという熱狂的姿勢は、いまのこの瞬間がこの世の最後の夜になるかもしれないと考えることでくじかれるに違いありません。
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ジャジメントという言葉をもっと厳密な意味で、すなわち宣告とは、報賞でなく、判定と取ることによって、ことがより鮮明に理解されることもあるのではないでしょうか。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、196-7頁
2019年5月18日(土)
世界の終わりのときには最後の審判があると聖書は語ります。その終わりのときがいつであるのかは父なる神さま以外はだれも知りません。
明日をよくするために今日の日を大切に生きたいと思います。しかし今日を大切に生きるとは、次の瞬間に世界が終わっても、神さまの前に胸を張って立つことができるように、今の瞬間を生きるということだと思います。次の瞬間に対する私のかってな予測に基づいて、今の瞬間に神さまの喜ばれない道を選択するならば、次の瞬間に世界が終わったならば、どうするのでしょうか。こうなるはずだったと、神さまの前にいいわけをするのでしょうか。
次の瞬間に対して私がかってな予測をするということは、私が神になってしまっているということではないか、と思います。
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」(マタイ25・31-33)