人間の魂そのものが煉獄の存在を要求するのではないでしょうか

人間の魂そのものが煉獄の存在を要求するのではないでしょうか。神が私たちに、「わが子よ、あなたの息はたしかにくさいし、あなたのまとっているぼろの服からは泥水が滴っている。しかし天国に住む者は愛の心に富んでいるから、そんなことはまったく気にしない。汚いからといってあなたを咎めだてしたリ、避けたりする者はいないだろう。主の喜びのうちに入りなさい」と言われるとしたら、私たちは心を痛めてこう答えるでしょう。「主よ、あなたのご意思は絶対です。でもよろしかったら、まず清めていただきたいのです。」「しかし、ひどく苦痛かもしれないよ。」「それでも結構です。どうか、清めて下さい。」
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この問題に関して私が好んで思う浮かべるのは、歯科医の椅子に座った患者の図です。生命の歯が抜かれ、私が麻酔から徐々に覚めつつあるとき、「口をすすぎなさい」という声が掛かる―煉獄とはそうした所だと思うのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、180-181頁

2019年5月6日(月)

「1030 神の恵みと神との親しい交わりとを保っていながら、完全に清められないままで死ぬ人々は、永遠の救いこそ保証されているものの、死後、天国の喜びにあずかるために必要な聖性を得るよう、ある浄化の苦しみをうけます。」
「1031 教会は、永遠ののろわれた人たちの苦しみとはまったく異なる、選ばれた人が受ける最終的浄化を、煉獄と呼んでいます。教会は煉獄に関する信仰の教えを、とくにフィレンツェ公会議とトリエント公会議で表明しました。教会の伝承では、聖書の若干の箇所に基づいた、清めの火というものを取り上げています。」
「1032 この教えはまた、すでに聖書が述べている死者のための祈りの慣行にも基づいています。『そういうわけで、〔ユダ・マカバイ〕は死者が罪から解かれるよう彼らのためにあがないのいけにえをささげたのである』(二マカバイ12・45)とあります。教会は当初から死者の記念を重んじ、死者のために祈り、とくにエウカリスチアのいけにえをささげていました。それは死者が清められて、神の至福直観に至ることができるためです。教会はまた、死者のために施し、免償、償いのわざを勧めています。」
(『カトリック教会のカテキズム』、「第2部 キリスト教の信仰宣言」、「第3章 聖霊を信じます」、カトリック中央協議会、2002年7月31日発行、309-310頁)

煉獄についてはプロテスタント教会にはさまざまな立場がありますが、おおよそ主流的な教派では大切な一つの教理として考えられているようです。

「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ12・32)
聖グレゴリウス1世の『対話』によると、この聖書の言葉から、罪の赦しについて、この世での赦しと後の世での赦しという二つの赦しがあることが語られていると解釈されます。