究極的な悪徳は傲慢

キリスト教の教師たちによると、本質的、究極的な悪徳は傲慢です。
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自分がどのくらい傲慢かを知る最も簡単な方法は、こう自問してみることです。「他の人が私に無礼な素振りをしたり、私の存在を無視したり、私のことに干渉したり、恩着せがましい態度を取るとき、これ見よがしに威張るとき、私はどの程度嫌悪感を覚えるか?」
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傲慢の本質は他人との比較です。他に抜きんでるということです。それは競争の要素がなくなれば、存在しなくなります。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、130f頁

2019年4月1日(月)

どこにあってもこの「比較」「競争」から自由になることができればどんなに幸せなことだろうかと思います。それは神さまにお出会いしなければ不可能なのだと思います。絶対他者であり、それでいて世の終わりまでともにいると約束して下さり、愛していて下さり、揺るぐことのないお方。その神さまに出会わないかぎり不可能なのだと思います。

「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」(ルカ18・11)
「この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。」(2テサロニケ2・4)