それは養分を必要とします

習練の第一歩は、自分の気分が変りやすいという事実を認識することです。次には、キリスト教をいったん受けいれたなら、その中心的な教義のあるものを毎日一定時間、あなたの精神のまえに意識的に掲げることです。それだから、毎日の祈りと信仰的な書物を読むこと、教会に出席することがクリスチャンの生活にとって必要なのです。
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どんな信仰にもせよ、いったん受けいれればひとりでに命脈を保つといったものではありません。それは養分を必要とします。
信仰を失った百人のうちの何人が誠実に検討をしたあげくに、理性的に信仰を捨て去ったでしょうか? 多くの人はただふらふらと離れ去ったのではないでしょうか?

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、108f頁

2019年3月17日(日)

先日参加した静まりの会で語られた聖句の一つに以下に記したエフェソ書からの言葉がありました。結婚生活について書かれている箇所ですが、その中で「わが身を養い、いたわる」という言葉があります。
手術を受けるとすれば、普段から研鑽を罪自分の技術に磨きをかけ、また手術に備えて前日に心身共に健やかに時間を過ごす医者にお願いしたいところです。国家資格を取得して以来、医学について何の研鑽もせず怠惰に過ごし、さまざまな仕事を抱え込み、忙しさの中で疲弊しているお医者さんだけは、避けたいところです。そういう意味では、自分をいたわる、自分をケアする人に私たちはケアをしていただきたいと思っています。
牧師は自分をケアできるものでなければなりません。おおよそ愛に生きようと願う人は、すべて自分をケアすることを大切にしなければなりません。

「わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。」(エフェソ5・29)