私たちに対する他人の罪を私たちが赦さなければ

罪の赦しを本当に信ずるということは、たえず磨きをかけていないと、いつの間にかうやむやになってしまうたぐいのものなのです。
私たちは、神が私たちの罪を赦して下さることを信じています。けれども私たちはまた、私たちに対する他人の罪を私たちが赦さなければ、神は私たちの罪を赦して下さらないということを知っています。
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他人の罪は、当の人間がいかに悪意に満ちみちていようが、いかに卑劣だろうが、いかにひどいことを繰返し行おうが、赦さなくてはならないのです。そうしなければ、私たち自身の罪も赦されないのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、83f頁

2019年2月26日(火)

 行いではなく信仰によって救われるのだ、とキリスト教の救いを強調したことでプロテスタントは生まれました。それは大切なことだと思いますが、その強調は、残念ながら行いを否定するという結果をまねているように思えます。聖書は決して行いか信仰かというこの二つを二極を対立させて救いの道を信仰に置いているのではないと思います。健やかな信仰はおのずと行いを生むものです。行いのない信仰は、信仰ではないのです。
 主の祈りの中で「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとくわれらの罪をも赦し給え」と祈ります。これは私たちの罪を神さまに赦していただくために、まず私たちに罪を犯す他人の罪を、そして他人自身を赦さなければならない、と祈っています。私たちが他人の罪を赦すことが条件となって、私の罪は初めて赦されるのだ、と語っているように思います。しかしこれは実際不可能なことですね。私たちは神さまのゆるしを信じ受け入れてはじめて他人の罪を赦すことが出来るのだと思います。
 けれども、やはりこの主の祈りは大切なことなのだと思います。信仰に生きる者は、他人の罪を赦すことが出来るのだと思います。そもそも赦さないぞ、という心は、自分自身を縛るものです。赦すということはこの縛りから解放されることです。そして自分自身が赦されたということを実感し、またその赦しのすばらしさを味わうことは、他人を赦す経験によってはじめて可能となるのだと思います。他人を赦さないならば、赦しの恵み、素晴らしさを味わい知ることが出来ないのだと思います。

「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」(使徒13・38、39)
「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1・14)