実在するものに困惑を感ぜざるをえない何ものかが存在する

私たちは神を、警察が逮捕した容疑者を扱うように扱っています。すなわち、彼がすることなすこと、何でも彼に対する不利な証拠として用いられるのです。これは人間が性悪だからというわけではありますまい。私たち人間の思考の様式そのもののうちに、実在するものに(実在するということ自体がどういった性格をもっているにしろ)困惑を感ぜざるをえない何ものかが存在するのではないでしょうか。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、56f頁

2019年2月6日(水)

人間が神さまのご存在を否定するということ自体、神さまが存在しているということの証拠である、とルイスは語っているようです。

やっきになってその存在を否定しなければならない心理状況は、結局、その存在が確かに存在しているからに他ならないということでしょうか。一所懸命否定しなければならないのは、それが存在することになると困るから、自分の人生にとって邪魔だから、ということでしょうか。
存在してもしなくてもどちらでもよいと思っている人は、一所懸命に存在を否定しなくてもよいでしょう。
存在することになると困るので、一所懸命に否定するのでしょう。
そうすると、この世界が神さまの存在を否定すれば否定するほど、神さまは確かに存在しておられるのだ、という確信が深まることになります。

「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」(エフェソ4・6)