とんでもない誤解

・・・イエスは暖かい、素朴な宗教(福音書に見出されるような)を説かれたのに、パウロがそれをねじ曲げて苛酷な、複雑な宗教(パウロの書翰に見出されるような)に変えてしまったといった見解です。これはまったくの話、とんでもない誤解です。・・・パウロの書翰の大部分は、私たちが所有している最古のキリスト教文献です。福音書はもっと後にくるのです。それはすでに回心している人々、すでに福音を受けいれている人々のために記されたのでした。大体においてそこにややこしい議論(神学)が記されていないのは、読者がすでに福音のうちにあって教えられてきた人々だったからです。その意味ではパウロの書翰は、福音書よりも根源的、中心的です。・・・主イエスを直接に知っていた世代がしだいに世を去りはじめていたときに、神の大いなる救いのみわざと、主イエスの残された言葉のうちのあるものを記録するために、福音書が集成されたのでした。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、43f頁

2019年1月26日(土)

聖書をもって教会を何らかの形で否定する宗教や信仰があります。しかし聖書は、教会がその信仰を明らかにし、人びとへの宣教を目的として、教会において書かれた書物である、ということを考えると、聖書をもって教会を否定する宗教や信仰というのはおかしなことです。
教会は、宣教の目的のために便宜的に作られた組織ということではありません。聖書は、教会はキリストのからだである、と語ります。キリストのからだであるということは、それは信仰の対象であるということです。教会は信じるものなのです。信じてはじめてわかってくるものなのです。