自分の力で何かをすることにまったく絶望し

大切なことは変化そのものの性質であって、それが起こっているときに私たちがどう感じるかではないのです。肝心なのは、自分の努力についてなにがしかの自信をもっている状態から、自分の力で何かをすることにまったく絶望し、すべてを神にお委せするという状態への変化です。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、42f頁

2019年1月25日(金)

悔い改めるという言葉は、方向変換という意味である、といいます。キリスト教信仰を持つということ神さまの方向に向きを変えること、それで「回心」といいます。「改心」という言葉もありますが、こちらは自分の力で自分の心を入れ替えるという決意のようなものですが、「回心」はそれとは全く違うことです。信仰者の中には「改心」の方とも思えるような信仰の方もおられないわけではありませんが、そのようなことでは結局のところ自分が中心となっているだけですから、信仰の喜びに生きるということとは程遠い信仰生活となってしまいます。信仰もったおかげでかえって窮屈になってしまったということであれば、悔い改めるという「行為」によって救われるということになってしまっているからでしょう。
「回心」に生きるためには、自分自身に絶望しなければなりません。しかし人間は自分自身に絶望することが難しいのです。とくにさまざまなコンプレックスを持っている人にとっては難しいことです。神さまの全き愛に出会うこと。自分が絶望してしまう自分を愛していてくださる神さまに出会うこと。十字架の愛に出会うこと。復活の愛に出会うこと、です。ルイスは上記の個所で「神に向って、『神さま、ここから先はあなたがして下さらなくては。私はもうお手上げです』と叫ばずにはいられなくなる、決定的な瞬間が訪れるでしょう」といいます。

またこのような回心は、自分自身がそれを「どう感じるか」ということが大切なことなのではなく「変化そのものの性質」が大切なのだ、といいます。それは私たちが自覚的に「感じる」ことではなく、振り返って確かにそのように変化してきているな、と感じるぐらいでいいのであって、特定の時をあげることができないものだ、といいます。